城ヶ谷遺跡見学会
2014年 10月 08日
なぜって、瓦を製造していた「登り窯と工場跡」・・・
Tombeeが生まれた昭和25年まで操業していたらしい。
・・で、遺跡だなんて・・・ショック。。
見学会があったから行って来た。
波根湖を囲んで・・こがによーけ遺跡があーだでなん。
「やどの家」=我が家・・・
Tombeeの散歩コースの地名やらを入れたけ参考にしちょくれや^^
古墳時代やら横穴遺跡やら天平の伽藍跡やら戦国時代の城跡やら・・・
今でこそど田舎だども・・昔々は栄えちょっただでなん^^
で・・今回は山陰道建設に伴い発掘された近世の「石州瓦の登り窯の跡」
以前、家訓で有名な多胡辰敬の岩山岩山城から道に迷って下山したのがこのあたり^^
お馴染みの顔がベラリ^^
竹やら雑木の森になっちょって藪漕ぎしただに。
昭和25年に職人さんがおらんよんなって止めた窯だげなけ・・・
64年ぶりに地面ててゆーか窯が日に当たっただに^^
あそこに瓦を立てて焼いただとなん。
瓦窯の特長だげなに。
窯の段々に、こがして立てかけて焼くだげな。
瓦が伏せてある下に穴が開いてるのが煙突だげなに。
木を伐採しちょーところが山陰道になーだへなに。
山陰道だことの要らへんだに・・・・。
銭金掛けて・・・・今でも瀕死の町が死んでしまわいなん。。
はーー、止まらんわいなん。。
あの竹藪の先も・・・瓦やらを乾燥させたり、作ったりした作業小屋があっただげな。
手間は・・・ヌケてて窯の中で使った陶器を置く台だげな。
瓦類、半胴(水瓶) 茶碗などの食器類、墓碑に花立、陶器制作の治具・・・
水道の普及で水瓶の需要がなくなって・・・小型の陶器を焼いて・・・
最後は凍結にも耐える石州瓦にたどり着いた?・・職人たちの苦悩のあとが・・
物原にはうかがわれる。
この後・・この登り窯の半分を壊して下の土を調べるだげな。
下の地層は平安時代だとか。
発掘調査は今年いっぱいにやらないけんだとなん。
産まれた年・・・・遺跡
ショックだったに^^ Tombee は遺物だに^^
ごきげんよう さようなら。
あれは筍の季節じゃなかったですかねえ?
あのヤブがこんなになっちゃたんですか!
山陰道の行き止まりでは利用も伸びないでしょうが…。
これ以上発展させて何処に行こうとしているのでしょう?
やっぱり立ち止まって振り返る勇気が必要でしょうね。
うふふ。古代から繋がっている現代ですね。
だってね。古代の道は、大田の雪見通りから、城山を通り、市井を通り、刺鹿へ抜ける道だったようです。
だから、あの街道筋は、結構往来が激しかったようです。吉川食堂も、明治元年には、あの二割れ坂に茶店を構えていたという。
今回も、山陰道建設に伴い、古代の道が現れたのかもしれませんね。近世の石州瓦の登り窯の跡発見は、大田市にとっては、大発見ですね。その昔は、北前船時代では、温泉津の登り窯がそのルーツですね。だから、刺鹿の登り窯は、温泉津の登り窯を真似していますね。そっくりです。
うわぁ!凄い・凄い!です。
やっぱり!大田って、凄いところです。
すごい!! 他人のことまで覚えてる!!
BUNさんって・・やっぱ・・すごい人なんですね^^
高速道路になーだいなん。
人は減る・・・車も減る・・・町も減るだに・・・。。
維持費もかかーでなん。。
地方創生・・・掛け声だけでは・・・。
どがすらいーだろかなん??
古代から現代まで・・・波根湖の周りにはロマンが溢れちょーに^^
山陰古道・・田儀から島津屋・朝山・・・農大の天王平廃寺から大西・・鈴見・・で・・市井・・城山のようですね。
大田でも石州瓦やってたんですね。
大発見・・当時を覚えちょたー人が証言しっちょたーようですよ。
近代はその需要とともに産業が興り・・消えて行った時代なんですね。
こんな近いもん・・遺跡と呼ぶのがショックでした^^
亙工場の件、昭和25年に操業停止との記載ですが、
当時私の母親がこの工場に働いており、私も保育園児の時に
工場まで母親を迎えに行っておりました、大原川の木橋を渡り
極楽寺の横の急坂を上ってたどり着くと、窯の煙突から煙が上がり
横の木造工場内で、粘土が亙の形になってベルトコンベアーで流れていました。
操業停止は昭和30年頃と思います。その頃に山に行かなく無った事を記憶しています。登り窯の遺跡写真を見て昔を思い出します。