余勢城と岩山城・・賀茂神社の神輿
2013年 11月 18日
歴史の話を載せーと長んなってやれんけやだだども、ざっと言うと・・・・
あの有名な多胡家家訓を残した多胡辰敬(ときたか)さんは
我が町久手町刺鹿の岩山城の城主でここで戦死したんですが・・・
親の家が邑南町中野の余勢城だだに。
そがなことで・・・中野の住民さんとは行ったり来たり^^
これで3回目の合同お勉強会だだに^^
座学で中山さんから教えて頂いた後・・
賀茂神社へ
御祭神やらなんやらは省かしてもろて・・・
783年加茂別雷神社(官幣大社)の別宮として勧請された神仏習合の宮だったげな
大同2年の807年に本殿・拝殿・末社・神門・神宮寺・三重塔・鐘楼が建立されたげな。
後年(1508年)尼子経久がここの三重塔やら神宮寺やらを参考にして、
出雲大社を遷宮しちょーげなだに。
そいで・・・今回の目的は・・・
建武元年(1334年)に南朝方の総追捕使(侍大将みたいなもん)足利直冬(ただふゆ)が寄進した神輿
そいで、本殿以下を全て再建立、神宮寺・鐘楼を復旧、三重塔の上葺をしたげな。
足利直冬は尊氏の子だったが、尊氏は実子として認知せんで・・・
尊氏の弟直義が養子にして直冬と名乗らせただと。
南北朝動乱の時代、一時期南朝全盛期もあったげなけど、
尊氏・義詮親子に敗れ、中国地方に逃げて来たげなに。
はい・・写真
正面から右回りで四方だに
初めて外の空気に触れたげな^^
祭りでも出さんかったげな。
とても・・・680年前のもんだと思えんだが・・・
引き両紋ててゆー足利家の家紋(丸に二の字)がいっぱい付いちょーでなん。
上の一は日輪で、下の一は月だげなに。
江戸末期に寄進されて、明治期に金箔を貼りなおしたげな。
中野の皆さん、東部公民館の皆さんありがとうございました。
オオナン?読めん!神輿、ビックリ!
出雲の神社は何処も立派ですねえ!
バカは出雲=島根と言う感覚ですが…Tombeeさんは出雲と石見は全く別物なんでしょうか?
足助次郎重範は笠置山の南軍の総大将でしたからチョコッと繋がりました。
歴史を感じました。
邑智(おおち)郡邑南(おおなん)町だに^^
出雲じゃなくて石見だに。島根=出雲+石見だに。
Tombeeの大田市は出雲との市境、県央てて言われるこだに。
足利直冬さん3か月くらい点火を取っちょったげなでなん。
明智光秀より長いでなん^^